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6月, 2021の投稿を表示しています

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消えゆく写真

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【FUJIFILM X-T3で試し撮り。被写体はLEICA IIIc】  元日の午後、手持ちのカメラ(FUJIFILM X-T3、レンズはFUJINON XF18-55mm F2.8-4.0 R LM OIS)でアンティークと化したLEICA IIIc(レンズはCanon SERENAR 50mm F1.9)を被写体に試し撮りをおこなった。ここ数日間続いた日本海側の寒波の煽りで、関東地方は異常なほど冷え込み、ただただ日光が神々しく、温かく、優しさをも醸し出しているかのようで、直接光と間接光に包まれたアンティークの被写体は何か、その機械的な佇まいの中に、微睡んでいるようにも見えた。  しかし一方で、いずれ消えゆくかも知れないアンティークの宿命の儚さもまた、写真という風雅の物悲しさを表している。《所有》とは、実に悲しげな行為なのである。ともあれ、個人的なクラシック・カメラの思い出は尽きることがない。私の記憶は、およそ20年前のウェブへといざなわれる――。 ➤写真とカメラを教示したmas氏  20年前のインターネットがきわめて遠い事象となりつつある、コロナ禍を経た時代の流れ。世相流行の移ろいはともかく、社会生活全般の隔世を感じるのは、私だけであろうか。今こうしてブログに文章を書いていることも、自身のウェブサイトをいくつか構築し、音楽や映像や写真などのポートフォリオを細々と展開しているのも、およそ20年前より私淑していた、mas氏のウェブサイトをお手本にしたものなのである。インターネットとのかかわり方、その作法や流儀について、詫び寂の何たるかまでも教示されたように思える。  20年前、彼に倣ってクラシック・カメラ遍歴(別の鋭い言い方では「クラシック・カメラ・ウイルス」とも言う)にどっぷりと浸かり、写真とカメラによる悦楽の日々を送っていたあの頃が、ひどく懐かしい。  mas氏に関しては、昨年の 「思い出のmas氏―池袋のお馬さん」 やそれ以前に多くテクストを書き連ねているので、ここでは詳しく書かない。  今はネット上に現存していない、彼の旧ウェブサイト[mas camera classica]では、洒脱な文章でカメラや写真についてとくと語られていて、その内容に私も感心したのだった。一部をコピーしてテクストファイルとして記録していたのもとうに忘れ、それをPCのハードディスク内か

灯台もと暗しインターネットの話

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【懐かしくなって入手した月刊誌『ヤフー・インターネット・ガイド』1999年1月号】  80年代以降、個人的に“パソコン通信”なるものに憧れ、90年代後半にはPDA(小型携帯通信端末)を使ってインターネット生活を始めた思い出話については、4年前の当ブログ 「おはようパソコン通信」 で綴った。“科学万博つくば‘85”を中学1年生で体験した世代としては、パーソナル・コンピューターを使って世界中とネットワークを結ぶ21世紀の新しい生活スタイルに、夢のような希望と感動を覚えたのだった――。  90年代の終末、ザウルスから切り替えて使っていたNECのモバイルギア(モバイルギアII MC/R450。OSはWindows CE)には、密かにポストペットのメールソフトがインストールされていた。そうしてインターネットを介し、国内外のペンパルとのやりとりに没頭していた20代後半の私は、言うなればまだ“若き青年”の範疇だったのである。 ➤YAHOO!インターネットガイドの時代  その“若き青年”は、ほんの少し前にフィルム式の一眼レフを初めて手にしたばかりであった。CanonのEOSカメラを片手に街を歩けば、カメラ好きのおじさんが声をかけてくれる――といった、その頃としてはごくありふれたシーンを体験することができたのだ。一般におけるインターネットの普及は急激に広まって、100万画素程度の安価なデジタルカメラがそろそろ家電量販店で目に付いた頃ではなかったか。  そうして2000年代に突入――。21世紀である。驚くべきことに、あれからもう20年の歳月が流れたことになる。そう、そうであった。その頃の時代で、私がすっかり忘れかけていたのは、月刊誌「ヤフー・インターネット・ガイド」(ソフトバンク)をむさぼり読んでいたということである。  「ヤフー・インターネット・ガイド」を読み始めてからというもの、いよいよそのインターネットに対する興味の熱情が、具体的にはPDAからデスクトップ・パソコンへと移り、モバイルギアを売却してソーテック(SOTEC)のパソコンを購入したのが、まさに2000年代に突入した直後のことであった。契約していたPHSによるインターネット通信を、今度は固定電話によるインターネット通信(インターネット利用料に通話料込みの定額+従量課金制)に切り替えたのが、まさにそうした時期である。  最初

トリュフォーの『大人は判ってくれない』

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【フランソワ・トリュフォー監督の映画『大人は判ってくれない』DVD】  映画狂の必須アイテムである、フランソワ・トリュフォー著『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(晶文社)が、片田舎の地元の、しかも自宅から5分もかからない所にある小さな書店で手に入ったのは、私が高校生の時のことである。それは今から33年くらい前のことであり、1988年から90年のうちのいずれかの時期――ということになる。  ちょっとばかり大袈裟に述べれば、そういう新宿の紀伊國屋書店だとか東京・丸の内の丸善でしか買えないような映画関連の専門書が、とある地方の片田舎の、家からわずか5分ほど先の書店に陳列されていたことの驚きと《奇跡》の有り様は、あながちそれ自体の《奇跡》というよりも、言わばその時代の社会的背景として当然の帰結であった可能性の方が高く、片田舎でさえもその時代において、頑なに通念として遵守されていた日本国内のある種のliteracyが顕在化していたということなのかも知れない。  この表現はもう少し大袈裟になって、事実と相違が生じる恐れがあるけれども、今、我が町に“ヒッチコック”だとか“トリュフォー”といった映画人の名が、書店もしくは図書館で閲覧できるような教養的文化の片鱗は、一分も見当たらない――のではないか。これが日本で起きている終末的な現実であろう、精神的な貧困が物理的貧困を生み、その物理的貧困が精神的貧困に連鎖する。確かに物は溢れているが、文化的でないのである。相対的な文化の衰弱死という恐ろしい終末なのであり、大国化ではなく小国化へ向かっている現象なのだろう。 ➤トリュフォーを知った私  私が小学4年生か5年生の時に、りんたろう監督の映画 『幻魔大戦』 (1983年公開)を観ていなかったことは明らかな事実なので、高校生になるまで『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』を知らなかったことになる。どういうことかというのは、 『幻魔大戦』 をじっくり観れば分かる。  中学生の頃には、テレビ番組で「ヒッチコック劇場」というのをやっていて、それに伴ってヒッチコック監督の映画も好きであった。『サイコ』(“Psycho”)などは、もしかすると小学生の頃に観ていたかも知れない。それ以外では、『裏窓』(“Rear Window”)や『北北西に進路を取れ』(“North by Northwes

伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』と北京籠城

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【ニコラス・レイ監督の映画『北京の五十五日』】  映画『お葬式』や『マルサの女』で知られる監督・伊丹十三氏は、俳優でありデザイナーであり、根っからのエッセイストである。かつて壽屋(現サントリー)のPR誌 『洋酒天国』(昭和38年1月刊の第56号) に、山口瞳の心伝手でひょんとそのエッセイのひとかたまりが載っかったことで、いま私の手元にあるその名の『ヨーロッパ退屈日記』は、反響が反響を呼び、瞬く間に巷に知れ渡り、おそらく戦後随一と言っても過言ではないほどの高い批評を得た傑作エッセイ集として、今でも尚、ある世代の方々の記憶に焼き付いていると思われる。  蛇足――。個人的な話で恐縮だけれども、数年かけてなんとか 『洋酒天国』全号踏破 を果たした私は、その山を登り終えた充足感が忘れられない。そこで、もう一つ別の山を登ってみようと思い立ったわけである。それがこの、伊丹十三著『ヨーロッパ退屈日記』だ。伊丹氏とこの本の来歴については、当ブログ 「伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』事始め」 で既に述べておいた。 ➤表紙の舶来品々  表紙が、まことに精緻でありながら、どことなくダンディズムを醸し出していて、おしゃれである。  私が手にしている新潮文庫版は、たいへん触り心地が良く、カバーのちょっとした荒目の質感に心がときめく。旅行のお供に――と考えると、際立って存在感が増す。カバーの装画は、伊丹氏本人の筆である。著書の解説文を書き下ろした関川夏央氏が、この表紙について少し述べている。付随して、伊丹氏のある種の性癖にも触れられていて、なかなか的確だと思った。 《「ブリッグの蝙蝠傘、ハリーのくれたスフィンクス(置時計の一部分)、ダンヒルのオイル・ライター、マジョルカで買ったピストル、ドッグ・シューズ、運転用手袋、ペタンクの球」――伊丹十三は言葉と文字を気にする人だった。表紙カバーはカヴァである。タキシードはタクシードでなければならず、ヴェニスのハリーズ・バーをベニスのハリーズ・バーと書くことを「愧」じ、コーモリ傘は蝙蝠傘でなければ「赦」さなかった。赤いのアカを、赤い、朱い、紅い、赫い、丹い、緋いと使いわけないと気分が「淪」んだ》 (伊丹十三著『ヨーロッパ退屈日記』、関川夏央「解説―文学に『退屈』する作家」より引用)  その昔、舶来品と言えば、アメリカかヨーロッパの物と相場が決まっていた。ほと

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